2014/06/23

Nepal-127: 上がる子/下がる子

20141月末日――私はネパールに戻って来た。
‥‥こういった書き出しもいい加減飽きてきたが、振り返ってみれば日本とネパールを往復しはじめて、もう6年か7年くらいになる。
もはやハッキリと思い出せないくらいの時間同じような事を続けていると、くたびれた中年サラリーマンのように日常から新鮮な感動や驚きが失われていく。
これは海外滞在型のブロガー(?)としては、致命的な状態である。
本来、ネパールなどテレビでしか観たことの無い読者に、ネパールで目にした「日本ではあり得ない光景」や「現地の風習」やなんかをお届けしなくちゃいけないのだが、現地に馴染みすぎて普通の日本人の感覚が分からなくなりつつあるのだ。
はっちゃけてるヒンドゥー教のお祭りだとか、恒例のガソリンスタンド前の大行列だとか、道交法の気配すら感じさせない『人・ヤギ・人』の3人(?)乗りバイクだとか、以前なら写真にとってアップしていたのが今ではカメラを出すことさえ頭に浮かばない有り様である。


実際のところ、そういったものは最初こそ新鮮だが、一発ギャグと同じでネタにできるのは一度きりだったりする。 
例えば、2月中旬頃には「カラー・フェスティバル」として知られるヒンドゥーの祭り『ホーリー』が今年もあったが、その日私は一枚も写真を撮ってなかった事に後になって気づいた。
ホーリーは、大人も子供も道に出て、カラフルな粉や水をほとんど無差別に掛け合い、ただひたすら騒ぐ、という行事だ。
このために学校を始め、ほとんどの公的・私的機関が休業となる。
私も最初の23年は村に行って子供たちのホーリー騒ぎに付き合っていたが、この頃はその気力も湧いてこなくなった。
そもそも『互いの顔に色を付け合う』という行為の何が面白いのか、私には理解できない。
そんな訳で、今年も被害の及ばない所から狂乱の宴を眺めつつ、日がな一日お茶を啜っていた。

このように日々色々な出来事は起こっているのだが、現実問題としてどれも記事にするにはパンチ力が足りない。
ちょっとした出来事をオーバーに脚色して、ノリと勢いで押し切るという手法もあるが、そのテンションが後になって読み返した時に痛々しくてたまらないので、出来れば使いたくないのだ。
長くなったが、以上が半年近くに渡って当ブログが更新されなかった事への、極めて論理的かつ不可抗力っぽい理由とその弁明である。

さて、久しぶりになってしまったので、とりあえず近況から書いてみよう。
まず、ホステルの生徒たちは皆、だいたい元気にやっている。
この春、ビルとシュレンドラは8年生に、スリジャナは7年生に、サンジェイとジャラナは6年生にそれぞれ進級した。
成績を見ると、サンジェイがかなりの上昇を見せており、他の生徒も現状維持か微上昇といった感じだ。
ただ一人、シュレンドラを除いて。

サンジェイの成績向上は、ある程度予想出来ていた。
もともと頭の回転の早い子なので、公立校から私立に編入して一年、新しい環境に馴染んでいくに従って、実力が発揮できるようになってきたのだろう。
一方、同じように村から出てきたジャラナの方には、期待していたほどの進歩が見られない。
ジャラナもサンジェイに負けず劣らず物覚えの良い子なのに、なぜこのような差が出てきてしまったのか。
その理由は、普段のジャラナの勉強姿勢を観察している内に段々と分かってきた。
それは一言で言うなら、『主体性の不在』というものだ。

ジャラナには、まだ『主体的に勉強する』という意識が生まれていない。
その違いはサンジェイと比べてみるとよく分かる。
宿題を例に取ると、大体の場合、ジャラナの方がサンジェイよりも先に終えることが多い。
これは決してジャラナの頭の回転が早いのではなく、単にやっつけ仕事のような感じで済ませているからだ。
ちょっとでも分からない所があった場合、サンジェイはすぐ誰かに聞きに行くのに対し、ジャラナは適当な答えを書いてスルーしている。
分からない事を分からないままで放置できるのは、つまり、勉強を『してる』のではなく、『やらされている』と認識しているからだろう。
このように主体的な意志ではなく、周囲からの働きかけによる行動を、『外発的動機づけ』による行動という。
この『外発的動機づけ』を、行動の理由を自らの中に見出す『内発的動機づけ』に切り替えない限り、彼女の勉強姿勢は改善することはなく、成績向上も望めないだろう。

しかし、そんな簡単に『内発的動機づけ』を植え付けられたら、誰も苦労はしない。
『内発的動機づけ』とは主体的な思考による行動であるから、それには当然、精神的に自立することが前提となってくる。
もちろん、サンジェイのような「元々、勉強が好き」という子供もいるだろうが、そうでない場合は、自分で論理的に勉強する意味を見出さなければならない。
そのため、精神的に自立しはじめる『思春期』以降にならないと、内発的動機づけを持たせるのは難しい。
それでは、ジャラナのようにまだ思春期を迎えていない子供に『内発的動機づけ』を持たせるにはどうすればいいのか。
それにはまず、本人に「成績を良くしたい」と思わせなければならない。
「もっと良い成績とらなきゃダメ」と外部から圧力を掛けたり、「良い成績とったらご褒美あげる」などと外発的動機づけを補強するようなことをせず、「宇宙飛行士になりたいの? じゃあ理科と英語がんばらなきゃね」と本人が自分で勉強しようと考えるような結論へさりげなく論理誘導する。
この時、「自分(親・教師)としてはどっちでもいいけどね」という態度をとることで、子供は「自分の事は自分で考えて決めなくちゃ」と自立心を獲得していく。
ただ問題は、子供がまだ何の方向性も持っていなくて、論理誘導のしようがない場合である。
ジャラナはまさにこのタイプだった。

私の結論を言えば、この段階の子供にはどんな働きかけをしても『外発的動機づけ』にしかならない。
よって、やがて成長して、何らかの目的意識を持ち始めるまで気長に待つしかない。
というわけで、ジャラナに関しては『内発的動機づけ』はひとまず置いておいて、さしあたって彼女の勉強姿勢を強制的に矯正することにした。
具体的には、
・分からないことがあったらすぐに聞く
・計算ドリルを毎日欠かさずやる
・出来ないままで終わらせない
といったような事だ。
特に計算ドリルは、日本から持ってきた1ページ20問のものを与え、
・毎日3ページ
・制限時間20
・正答率9
・それ以下なら最初からもう一回
というルールを決めて、春休みの期間中、徹底的に反復するように言った。
ちなみに、このドリルはホステルの他の生徒たちがSG小学校にいた頃、特別クラスでずっとやらせていたものだ。
ジャラナはSG小学校の出身ではないので、こういった蓄積が無く、基礎力が他の生徒よりも弱い。
その穴を埋めるため、そして、より高い学習意識を身に付けさせるために、計算ドリルというのはなかなか有用なのである。
ジャラナのように聞き分けのいい子ならば、自我が出てくるまではとりあえずはカッチリ型にはめて、適切な学習の習慣を付けさせればいいだろう。

以上のような対応が思春期前の子供には効果的と思われるが、これが思春期の子供になると、途端に問題が複雑になってきたりする。
それがまさに今回、シュレンドラに起きたこととも言えるのだが、これについては次回書いていこうと思う。

ホステルにて

0 件のコメント:

コメントを投稿